賢治と農学校

宮澤賢治先生と「花巻農学校」

しばしば、レコードコンサートを開催し、「月光」「運命」などの名曲を鑑賞させてくれた。先生は、「運命」を好まれていて、「まさしくこれは、運命を開く音だ」と言われていた。大正15年3月には、「ベートーベン100年祭」を独自で開催されている。
よく生徒たちを誘って、岩手山や種山が原・花巻周辺の山野に出掛けられたが、いつも胸に吊した手帳に「心象スケッチ」をメモされていて、会心の作ができると「ホーッホーッ」と叫んで飛び上がって、その喜びを示していたと当時の教え子の方々は回想している。
 
大正15年1月、花巻農学校内に農村指導者養成のための「国民高等学校」(3ケ月課程)が開設され、賢治先生も嘱託講師となり、「農業科学」「農民芸術論」を講じた。
この頃、先生は「オレも家さ帰ってカセグから、お前達も、家で真面目にカセゲ」と言われていたが、3月には花巻農学校を退職され、下根子桜の別宅での独居農耕の生活に入られた。

このようにかつての農学校は、時代の先端の文化を生活レベルに取り入れるため、地域に対する大きな窓となっていた。
現在の大学も、こういう力を発揮しなければならないはずだ。
大切なことをどこかに置き忘れたままではいけない。