著作権の話

 著作権の話をクリエイティブな現場ではじめると、そこにいろいろな立場の人がみえてくることをあらためて思い知ることになる。

 たとえば、極端な話をするが、あるとき、偶然、目の前に通りかかった俳優さんに、たまたま持っていたビデオカメラで撮影してよいかと聞いたとする。このとき、相手がいいよと快諾してくれれば、撮影した映像を映画にすることができる。

 これは、個人が自分で撮影した映像の著作権は、その個人が所有するという話だが、撮影や編集を行うプロダクションの場合では、どうだろう。この場合でも、特段の契約がなければ、その作品の著作権は、撮影や編集をしたプロダクションがもつ。

 しかし、実際には、プロダクションの手によって、その作品が市場に流通することはまれだ。なぜなら、このような作品は、TV放送で放映することが前提になっている場合が多く、企画や出演者の手配を放送局が行っている。そのため、この作品が商業からみて、価値を生みだすために行う「窓口」業務は私どもでと、放送局がいうことが多い。
 さらに、ウインドーコントトロールいって、こうした過程を経て世にでるDVDなどの発売日の近くに、地上波やCS放送で再放送しないなどの制御を放送局ならば、企画に合わせて行うことができる。

 そんな事情で、プロダクションの権利は、事実上かなり限定されてしまう。

 かたやこんなこともある。

 TVの歌番組で、人気バンドグループが生演奏するとする。演奏には、グループメンバーだけではなく、様々な楽器奏者が加わるアレンジになっているので、これらのミュージシャンも出演し、彼らが演奏する楽器やアンプ類もセットすることとなる。さらに、音声を担当するサウンドエンジニアや楽器を搬入するスタッフや車両も必要だ。

 当の放送局からの支払いは、人気バンドグループに対する出演料のみとなる。したがって、上記は、すべてグループが所属するプロダクションからの持ち出しとなる。
番組の著作権はもちろん局側にある。それでも、プロダクションは、電波に乗って全国放送されるのならばと、PR要素を多いに期待して、まあいいかとなる。

 このような観点から分析すると、放送局が、いかに上手なビジネスモデルを構築してきたかということがわかる。
 放送の権利は強い。
 これが不合理であるととく向きもある。様々に価値観や新しい技術が変化するなかで、見なおすべきことはたくさんあるだろう。いや、実際にある。

 こうした状況の改革や改定を考えるとき、現状をよく分析し、なぜいま、どういう経緯でこうなっているのか、話合う相手の立場はどういう力学上の視点と支点なのかを理解して、ことにあたることが非常に大切でるように思う。

 そうでないと、いつまでも本質にふれる議論になることはない。